羌瘣の復帰がいつなのか。
象姉の仇である幽連を倒した後で即合流となります。
※本編ネタバレを含みますのでご注意下さい。
幽連との決着も羌瘣にとっては苦しい戦いになりました。
⇒羌カイと幽連の雌雄決する戦い
この決着が終わった後、すなわち函谷関の戦い(蕞の戦い含む)の後で飛信隊に復帰して怒涛の勢いで武功を上げていくことになります。
函谷関の戦いの後で羌瘣は合流
羌瘣が合流となるのは秦国が亡国の憂き目に合っていた函谷関の戦い。
この後になります。
非常に長く危機的な状況から嬴政まで戦場を駆け巡る大戦となった函谷関の戦い(蕞の戦い含む)。
厳密には合従軍VS秦国軍という戦での勝利の後が羌瘣の合流となります。
李牧が攻めてきた蕞での戦いで羌瘣が登場するのではとも言われていましたが誤りでした。
最終局面で救いの使者として現れたのは楊端和率いる山の民軍です。
もし彼らが辿り着いていなければ蕞は確実に落ちていたでしょう。
要するに秦は国を失っていたことになります。
計り知れない功績をキングダムにおける楊端和率いる山の民は上げてくれたと言えるでしょう。
この時点では羌瘣は仇である幽連を探していました。
飛信隊を離れて332日後
飛信隊を羌瘣が離れたのは函谷関の戦いに至る前の山陽の戦いの後でした。
山陽の戦いは廉頗大将軍と蒙驁大将軍が対峙した戦です。
廉頗四天王の輪虎(りんこ)を倒したことで一つ限界を超えた信が大きく成長したのは記憶に新しいのではないでしょうか。
⇒輪虎(りんこ)は史実不在
その山陽の戦いが終わって飛信隊を出て象姉の仇である幽連を探す旅に出ました。
この332日の間に合従軍による函谷関突破が目論まれていました。
道中で何度も秦国についての情報を得ていた羌瘣ですが、戻ることはしていません。
最終的に幽連を討ち取った後に合流することになりました。
タイミングは何度も言う通り函谷関での死闘の後となります。
羌瘣が戻った飛信隊は三千人
函谷関を終えた後で信は三千人将になっていました。
羌瘣が出ていった時はまだ臨時の千人将だったと考えると大きな飛躍と言えます。
ここに合流をした羌瘣は前線指揮を取って武功をあげまくります。
再起戦の数コマで要人を三人斬っています。
周囲の武功がかすむほどの力を発揮している羌瘣。
これが羌瘣の復帰時の状態となります。
大将軍と信の子を生むのが羌瘣の新たな目標
羌瘣は復帰した後に新たな目標を信に宣言しました。
- 大将軍になること
- 信の子供を生むこと
子作りについては知らなかった様子ですが、後に信を好きなこともはっきりするので羌瘣と信は結ばれるでしょう。
大将軍についても最初の六大将軍が蒙武・騰・王翦・楊端和・桓騎となりました。
そこから追加で信・王賁・蒙恬が入り込むことになるでしょう。
桓騎は途中で李牧に敗れて死んでしまいます。
⇒桓騎は李牧に殺される
楊端和についても趙の滅亡の後は史実には姿を表しません。
席が三つ空いた状態となれば信と王賁と蒙恬が入ってしまうので、羌瘣の大将軍の夢は叶わない可能性もありそうです。
龐煖との戦いによって信に命を分け与えた事で、今までのような強さを発揮できない状態になりました。
命全てを投げ出す覚悟で結果的に信を救った上で戻ってこれた羌瘣。
しかし寿命は短くなっていました。
現実に王騎大将軍と摎(きょう)大将軍のような関係で双方が大将軍として活躍するかは疑問でしょう。
また信の子を産んで戦いから退く展開も十分に考えられます。
戦歴を重ねて必要不可欠な存在
飛信隊と合流した羌瘣はその後の戦でも必要不可欠な存在として君臨します。
成蟜の反乱(偽りの)での羌瘣は千人将となっていました。
この段階での信は四千人将で合わせて五千の兵力が飛信隊となっています。
更に信隊五千に対して羌瘣隊三千を合わせた八千を飛信隊と呼ぶことになっていきます。
ちなみに三千人将や四千人将と五千人将はまるで異なるものだと騰が言っています。
将軍の一つ下となるのが五千将です。
これを経験してこそ将軍とは何たるかが分かるものになります。
実際に信はこの五千将の状態のままで三つの大きな戦歴を重ねていました。
- 毐国(あいこく)の反乱
- 黒羊丘の戦い
- 鄴攻め(朱海平原の戦い)
長きに渡る将軍までの道のりとなっています。
ちなみに信が将軍になった時点での飛信隊の勢力は一万五千となりました。
これによって羌瘣も度重なる武功によって将軍の一歩手前である五千人将まで昇格出来ています。
復帰から昇り上がる羌瘣。
趙滅亡の戦の前には将軍になることが史実で確定しています。
以上が羌瘣の復帰から信の将軍になるまでの考察となります。
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Source: マンガ好き.com
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